前回のあらすじ 04

『心(こころ)』 前回のあらすじ

■第四回(2015年4月25日) /「先生と私 二十五から三十二」
 
其年の六月に卒業する筈の私は、是非共論文を四月一杯に書き上げて仕舞わなければならなかった。私の選択した問題は先生の専問と縁故の近いものであったが、先生は此点について毫も私を指導しようとはしなかった。
「以前はね、人前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のよゆに極りが悪かったものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の恥でないように見え出したのだから、つい無理にも本を読んで見やうといふ元気が出なくなったのでせう。まあ早く言えば追い込んだのです。」
それからの私は殆ど論文に祟られた精神病者の様に目を赤くして苦しんだ。ついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げる迄、先生の敷居を跨がなかった。

八重桜の散った頃、ようやく自由になった。私はすぐ先生のうちへ行って、先生を散歩へ連れ出した。若葉に閉ざされた小高い蒻鬱した小高い一構の下に細い道があり、這入っていった。人影はなく、躑躅が咲き乱れていた。
「突然だが、君のうちには財産が余程あるんですか?」先生が変な事を私に聞いた。
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけて貰っておかないと不可いと思ふがね、余計なお世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものは貰って置くようにしたらどうですか?」
先生は其上に私の家族の人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父や叔母の様子を問ひなどした。
「田舎者は都会の者より、却って悪い位なものです。それから、君は今、君の親類なぞの中に、是といって悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間といふ一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないのです。」先生の談話は犬と子供に遮られ、結末迄進行できなくなった。私は思想上の問題に就いて先生から大いなる利益を受けたが、同じ問題について利益を受けようとしても、受けられない事が間々あった。先生の談話は時として不得要領に終わった。其日二人の間に起こった談話も、この不得要領の一例として私の胸の内に残った。

私は予定通り及第した。卒業式の晩、先生のうちへ御馳走に招かれていった。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「何うしたかね。まだどこかに仕舞ってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
卒業証書の在処は二人とも能く知らなかった。

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