前回のあらすじ 02

『心(こころ)』 前回のあらすじ

第二回(2015年2月28日) /「先生と私 九から十六」 

私の知る限り先生と奥さんとは、仲の好い夫婦の一対であった。座敷で私と対座しているとき、先生は何かの序でに「おい静(しづ)」と何時でも襖の方へ声を掛けたが、その呼び方が私には優しく聞こえた。返事をして出てくる奥さんの様子も甚だ素直であった。
言逆ひのようなものを耳にしたこともあったが、しかし先生と奥さんの間に起こった波乱は大したものではないことはすぐにわかった。先生はある時こんな感想すら私に漏らした。
「私は世の中で女といふものをたった一人しか知らない。妻以外の女は殆ど女として私に訴へないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思って呉れています。さういふ意味から云って、我々は最も幸福に生まれた人間の一対であるべき筈です。」
先生は何故幸福な人間と言い切らないで、あるべき筈であると断ったのか。私は心の中で疑ぐらざるを得なかったが、其疑いは一時限りで何処かへ葬られてしまった。

或時花時分に私は先生と一所に上野へ行った。そうして其処で美しい一対の男女を見た。「新婚の夫婦のようだね」と先生が云った。「仲が好さそうですね」と私が答えた。
「君は今あの男と女を見て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評のうちには、君が恋を求めながら相手を得られないといふ不快の声が交じっていませう。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。然し・・・然し君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」
先生はそれぎり恋を口にしなかった。

またあるときには、若さ故に一途になりやすい私に対して、先生がこういった。
「あまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、寂しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、其の犠牲としてみんな子この淋しみを味はわなくてはならないでせう。」
私はこういう覚悟を有っている先生に対して、云うべき言葉を知らなかった。

あるとき、先生の付近で盗難に罹ったものが三四日続いて出た。そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情が出て来て、留守に番を頼まれた。まだ灯の点くか点かない暮方の頃、長火鉢に鉄瓶が鳴っている茶の間で奥さんに茶と菓子をご馳走になった。自然と、先生の話になった。